台湾の歴史を分かりやすく解説|台湾発見から厳戒令の解除まで
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台湾が世界史に登場したのは、今からつい400年ほど前のことです。

かつて、台湾は先住民族が住む名も無い島でした。

その名も無い島は、ある日から「台湾」と呼ばれるようになり、現在に至るまで激動の時代を歩んできました。

今回は、そんな台湾の歴史を紹介します。

台湾の歴史の流れが知りたい!という方は是非ご一読ください。

部分的に知りたいという方は、以下の目次から飛んでください。

それでは、参りましょう。

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台湾の島を発見!

台湾の島影をはじめてヨーロッパ人が目にしたのは16世紀のことでした。

台湾の島が発見された時期については諸説あり、はっきりと確定されていませんが、推定では1540年前後といわれています。

この頃の日本は戦国時代で、時期としては日本に初めて鉄砲が伝わった頃(1543年頃)です。

麗しき島「イラ・フォルモサ」

台湾には「フォルモサ」という呼称があります。

16世紀の中頃、台湾付近の海域を航行していたポルトガル船の乗組員が、海上に見える島(台湾)を発見し、「Ilha Formosa!(イラ フォルモサ!)」と声をあげたそうです。

「Ilha(イラ)」は島、 「Formosa!( フォルモサ)」は麗しいという意味で、フォルモサという台湾の別名は、これが語源といわれています。

ポルトガル人が航行で発見した「麗しき島」は台湾以外にも複数あったようですが、現在では台湾の固有名詞となっています。

台湾の先住民族

16世紀の台湾(フォルモサ)は、山地や東海岸側に住む先住民族(高山族)や、中国からの移住民(漢族)が暮らす島でした。

現在の台湾で「原住民」という総称で呼ばれている人々は、元から台湾に住んでいた先住民族のことを指しており、台湾全土にさまざまな風習や言語の異なる人々が暮らしていましたが、現代では少数民族となってしまいました。

この先住民族(高山族)の人々はマレー・ポリネシア系といわており、単一の部族ではなく、当時では16部族以上(政府認定は16部族)が存在していたそうです。

16世紀の台湾(フォルモサ)は、さまざまな風習や言語を持った部族が、異なる時期に移住してきたのちに、それぞれで独自のコミュニティーを築いて暮らしていたのです。

ちなみに、その頃の「名も無き島(台湾)」は、倭寇(わこう)といわれる海賊や、犯罪者などの巣窟(そうくつ)にもなっていました。

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台湾オランダ統治の時代

世界史上、台湾を最初に統治した国はオランダとされています。

当時、名も無き島(台湾)を発見したポルトガルと同様に、オランダもアジア進出を考えていました。

台湾がアジアとの中継拠点になると考えていたのです。

占領された台湾

オランダが台湾に初めて上陸したのは、1624年のことです。

オランダは台湾に足を踏み入れる前、台湾の西側に位置する「澎湖(ほうこ)諸島」の植民地化を巡って明王朝(中国)と争っていました。

戦争の末、オランダと明王朝は休戦協定を結びます。

この協定で、オランダは澎湖諸島から撤退することを条件に、明王朝から台湾占領の了承を得たのでした。

これがオランダ統治の始まりです。

このオランダの台湾統治は1624年~1662年までの38年間続きます。

オランダによる支配

オランダは台湾に上陸したのち、先住民族や移民族(漢)の抵抗や、ポルトガルやイギリスなどの競合国からの攻撃に備え、台湾に城塞を築きました。

現在観光名所にもなっている、台南市の最も古い城塞「安平古堡(あんぴん こほう)」と「赤崁楼(せきかんろう)」です。

オランダの武力による台湾支配に対して先住民族は、幾度(いくど)となく抵抗や蜂起(麻豆渓事件など)しており、多くの戦死者が出ています。

キリスト教の布教

オランダの支配によって、自由を失った先住民族。

土地を奪われ、これまでの自由な生活を奪われた人々は、不安と不満を抱えます。

先住民族や移民族の反乱がいつ起こっても、おかしくない状況でした。

この状況に対し、オランダは何らかの対策をとる必要がありました。

そこでオランダは、先住民族を武力で押さえつけると同時に、台湾でのキリスト教布教活動を行い、鎮静化を図ります。

この政策により、先住民族の反乱を封じ込めることに成功したのでした。

台湾を拠点にしたオランダの貿易

オランダは、アジアとの中継拠点となる台湾を支配したことにより、日本を含む東アジアや、東南アジアとの貿易を実現させることができました。

そして、これを機に台湾での農地・農業開発も大きく進み、様々な作物が台湾に入ってくるようになったのでした。

台湾でお馴染みの果物マンゴーもその一つです。

更に、砂糖(主にサトウキビ)産業も、ここから大きく発展しており、砂糖貿易(輸出)は重要な収入源となりました。

また、この農地や農業の開発は、オランダの貿易にとって非常に重要な部分であり、これによってオランダは莫大な利益を手にします。

オランダ統治の終わり

台湾を拠点に、貿易の拡大を進めていたオランダでしたが、1662年2月、中国の明王朝復興のために台湾を欲する鄭成功との戦いに敗れ、台湾を奪われます。

こうして、オランダは台湾の開拓半ばで台湾から撤退することになったのでした。

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鄭氏政権統治の時代

台湾のオランダ統治時代の後に訪れるのは、鄭氏政権による統治時代です。

この鄭氏政権の中心人物となるのが、現在も台湾の英雄として称えられている鄭成功です。

鄭氏政権の台湾統治は、23年間続きました。

鄭氏政権の台湾占領のきっかけ

オランダが台湾を統治していた頃、中国では「明王朝」から「清王朝」へ主権が移ろうとしていました。

この時、のちに台湾を占領する鄭成功は、明王朝を守る立場にありました。

1644年に明王朝の事実上最後の皇帝「崇禎帝(すうていてい)」が自殺。

鄭成功の父親「鄭 芝龍(てい しりゅう)」は対立する清によって幽閉。

鄭成功の母親「田川マツ」は清軍の凌辱を受け自害。

崇禎帝の自害の後に、南明政権を樹立した「永暦帝(えいれきてい)」も清に逐(お)われ明王朝は滅びます。

鄭成功の決意

鄭成功は「反清復明」の旗印を掲げて父と母、そして明の仇(かたき)である清を討つことを決意しました。

「清王朝を滅ぼし、明王朝を復興させる」と誓ったのです。

鄭成功は、明王朝を再興するための方法として、豊かで利便の良い島「台湾」へ侵攻し、「反清復明」の拠点することを決めました。

そして、澎湖諸島を占領したのちに、台湾に上陸するのでした。

鄭氏政権の始まり

1662年2月、鄭成功軍はオランダ軍との戦いに勝利し、台湾の占領を成し遂げます。

当時、オランダからの侵略を受け、オランダに対して敵意を抱いていた先住民族の大半にとって、鄭成功の台湾侵攻は助けともいえるものでした。

台湾の占領に成功した鄭成功は、台湾全島を「東都」とし、台湾の行政区域の画定を整えました。

また、オランダ連合の東インド会社が所有していた田畑(王田)などの土地を没収し、引き続き農地を開拓していきました。

鄭成功の死

「反清復明」を胸にオランダ軍に勝利し、台湾を拠点にして勢力拡大に努めた鄭成功ですが、オランダに勝利した同年1662年の5月、病によりこころざし半ばでこの世を去ってしまいます。

台湾に上陸して僅か1年、鄭成功39歳のときでした。

鄭成功は、台湾からオランダを追い払った英雄として、台湾の民から「開山王」と称えられ、のちに「延平郡王祠(えんぺいぐんおうし)」という鄭成功を祀る祠が台南市に建てられました。

このは別名、「開山王廟」とも呼ばれています。

鄭成功の後継ぎ

鄭成功の死後、身内の間で後継ぎ争いが起こりますが、鄭成功の長男「鄭経」が2代目として後を継ぐことになります。

2代目鄭経の死後は、鄭経の次男「鄭克塽」が3代目として後を継ぎました。

鄭氏政権の終わり

「反清復明」を掲げ、3代に渡り清王朝と戦った鄭氏政権でしたが、1683年に清軍によって澎湖諸島を占領されてしまいます。

これがきっかけとなって、清王朝の侵攻は進み、澎湖諸島に次いで台湾本島も同年の内に占領されました。

こうして、鄭氏政権は23年間で終わりを迎えます。

 

清国統治の時代

鄭氏政権が滅びた後は、清国が台湾を統治します。

しかし、清国内では台湾を領土とすることに対して反対派と賛成派に分かれていました。

台湾が海賊や無法者なのどの巣窟となっていたことから「台湾を領土にする権利は放棄したほうが良い」という反対派の考え方に対して、豊かな土地で農作物が豊富に取れる上に、外敵から中国を守る場所として台湾は適しているというのが、賛成派の考え方でした。

1684年、清国「康熙帝(こうきてい)」は賛成派の意見を受け容れ、台湾の領有を決めます。

こうして212年の長きに亘る清国の台湾統治が始まりました。

「移民制限」による反乱防止

鄭氏政権に代わって台湾を占領した清国は、先住民や移住民の反乱を強く警戒していました。

そのため清国は、反乱を未然に防ぐために移民制限の対策を実施しました。

台湾に住んでいた中国からの移住民(漢族)をできる限り中国に帰化させ、台湾への再訪を禁じるなど、移民者に対して厳しい制限を設け、台湾で反乱が起こらないための対策に力を注いだのです。

とはいえ、清国の台湾統治期間は212年間と長く、その長い歴史の中では移住民や先住民族が反乱を起こすことも多くありました。

進む台湾の農業開発

清国は、鄭氏政権時代に築かれた行政や農業のやり方を大きく変えることはせず、それを基盤に行政区画の整理や農業開発を進めていきました。

この時代も、基盤となる農業はサトウキビ栽培です。

また、台湾では米も多く栽培され、その米は中国に供給されていました。

台湾は中国の重要な農地だったのです。

列強から注目が集まる台湾

清国が統治する台湾は、イギリスをはじめとする列強といわれる、力を持った国々から注目されていました。

1840年に清国とイギリスの間で起こった「阿片(アヘン)戦争」のさなかに、台湾の占領を試みたイギリス。

1854年に日本とアメリカの間で締結された「日米和親条約」の際、台湾がアメリカの中継貿易の拠点に適していると報告し、台湾の領有が利になると唱えた、東インド艦隊司令長官のペリー。

そのペリーの報告によって、台湾に注目したヨーロッパの列強。

当時の台湾は、アジアに進出を狙う列強にとって、非常に魅力的な島でした。

天津条約による台湾の開港

1856年に清国とイギリス間で「アロー号事件」が起こります。

この事件は、「阿片(アヘン)戦争」のあとに起こった事件で、中国の広州港に停泊していたイギリスのアヘンの密輸船「アロー号」に対し、清国が海賊の容疑で立ち入り検査を行い、船員を逮捕したことがきっかけです。

この一件に関してイギリスは、「国旗が引きずり下ろされた」と主張し、屈辱的な行為であると抗議したのです。

この事件は、列強を巻き込んだ「アロー戦争」へと発展し、敗れた清国は1858年に「天津条約」を締結することになります。

この条約は清国とイギリス・フランス・ロシア・アメリカとの間で締結された条約で、清国にとっては不平等な内容となっている屈辱的なものでした。

この条約のなかに、「清国の港を開港させる」ことと、「外国人が清の領土内を自由に旅行し、商売ができる」という内容が含まれており、清国は不本意ながらも台湾の港を開港しなくてはならなくなったのです。

この結果、台湾の「淡水・基隆・安平・高雄」にある港が次々と開かれていきました。

そして、これを機に欧米の文化が台湾に流れ込んでいきます。

清国統治の終わり

1894年、朝鮮半島の領有権を巡る日本との戦争「日清戦争」が勃発。

清国は日本に敗れ、1895年4月に「日清講和条約(下関条約)」が締結されました。

この条約により清国は、朝鮮の独立を承認し、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲し、さらに2億両(約3億円)という莫大な賠償金を日本に支払うことになりました。

日本統治の時代

この頃の日本の元号は明治、「文明開化」の時代です。

当時、列強が台湾に注目するなか、日本もまた、台湾を含むアジアへ進出する機会を窺っており、1874年に台湾へ出兵もしていました。

1894年の「日清戦争」に勝利し、「日清講和条約(下関条約)」の締結によって、これまで清国が統治していた台湾は日本の統治下に入ったのでした。

こうして日本の台湾統治50年の歴史が始まります。

「台湾民主国」独立宣言

「日清講和条約(下関条約)」の締結によって、日本に割譲された台湾でしたが、台湾に住む現地の人々は日本の統治下に入ることに反対しており、抗戦の意思を持っていました。

そんな中で「日本の台湾統治をなんとか阻止したい」と考えるフランスが台湾に介入してきます。

台湾とフランスによる話し合いの結果、台湾が独立して列強であるフランスと条約締結することで、日本の台湾領有を阻止できるという結論に至ります。

台湾の人々にとって、フランスの介入は救いの手でした。

こうして、台湾は「日清講和条約(下関条約)」が締結された同年1895年の5月に「台湾民主国独立宣言」を布告しました。

日本の台湾占領

日本の台湾統治は、台湾北部の占領から始まり、南へと侵攻していきました。

台湾住民の抵抗は非常に凄まじく、婦女までもが日本軍と戦ったという記録が残っているそうです。

この戦いにより、約1万4千人の台湾住民が命を落としたといわれています。

台湾住民に求められた国籍の選択

日本は、台湾統治のために「台湾総督府」という行政機関を台北に設けました。

そして、台湾及び澎湖諸島の住民に対し、「日清講和条約(下関条約)」の第5条に基く、国籍の選択を求めたのです。

この第5条の内容は以下のようなものでした。

  1. 日本国籍を取得し、日本国民となって台湾に留まる
  2. 台湾で所有している財産を売却し、台湾を去る

台湾の住民は、このどちらかを選択しなければなりませんでした。

要は、「日本国民になりたくない者は、台湾から立ち去りなさい。」という内容です。

この選択には2年の猶予が設けられており、台湾の住民はその期限である1897年の5月までに、どちらかを選択せざるを得ないという、望まぬ選択を迫られたのでした。

その結果、台湾から去った住民は数千人(全体の1%以下)で、ほとんどの台湾住民は、日本国籍を取得して台湾に残ることを選びました。

台湾で行われた「警察による治安維持」

台湾統治を行う日本は、一部の台湾住民による武力抵抗の鎮圧に力を注ぎました。

この武力抵抗鎮圧のために行われたのが、台湾総督府の民政長官であり、後の1906年に南満州鉄道の初代総裁となる後藤新平のとった「警察による治安維持」政策です。

台湾を警察の管轄下で監視・管理することで、徹底的に武力抵抗を鎮圧したのでした。

台湾の警察組織網は拡大し、刑罰という名の元に抵抗者は厳しく罰せられました。

それでも日本の台湾統治に対する不満を持つ台湾の住民は当然存在し、「霧社事件」など台湾住民による大きな蜂起が、第一次世界大戦以降にも起こっています。

台湾の経済発展

日本は台湾の経済基盤となる、交通基盤や陸海の運輸の整備を整えました。

1899年には台湾総督府によって、台湾銀行が設立され、これまで硬貨だった貨幣は、紙幣に統一されました。

この台湾銀行を通じて、台湾の貿易は進み、それに伴って産業開発も大きく進んでいったのです。

ちなみに、1919年に、台湾総督府(現在の台湾総統府)が建設されました。

日本による学校の設立

台湾の経済産業を発展させるためには、教育の充実が必要不可欠であるとして、日本(台湾総督府)は学校教育に力を注ぎました。

台北の台湾総督府国語学校(日本語を教える学校)をはじめとして、中・高学校や職業学校が台湾各地に設立され、多くの台湾の人々が学校に通い、日本語が普及しました。

この日本統治時代の学校教育が、のちの台湾の経済発展や、現在に至るまでの近代化に大きく影響を及ぼしていると言えるでしょう。

日本統治の終わり

1933年、日本は国際連盟から脱退します。

そして、その4年後1937年に日中戦争、1941年に太平洋戦争が起こりました。

第2次世界大戦の時代です。

開戦当初は快進撃を続けていた日本軍でしたが、ミッドウェーでの戦いを境に敗色濃厚となり、ついに連合国軍(アメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦・中華民国など)から提示されたポツダム宣言を受諾。

そして1945年8月15日、「玉音放送」によって終戦を迎えます。

この敗戦により、日本による台湾統治は終わり、台湾は中国の管理下に置かれたのでした。

中国(中華民国)国民党政権統治の時代

中国(中華民国)の加わる連合国が日本に提示したポツダム宣言は、日本に対して無条件降伏を迫るものでした。

また、この中には日本が過去及びこの戦争で領有した全ての領土を放棄して、日本は本州・九州・四国・北海道などのもともとの国土に戻すという領土に関する事柄も含まれていました。

これにより、蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党政権は、台湾の領有権に関する国際的な条約がないまま、台湾占領を開始し、結果として台湾は中国に返還される形になったのでした。

日本資産の接収

台湾を占領した国民党政権は、日本統治の頃の台湾総督府に代わる行政機関として、「台湾省行政長官公署」を台北に設置しました。

そして、日本の公営企業や民間企業を接収し、中国の企業として運営を始めました。

中国が日本から接収した企業の資産価値を合計するとその額は100億円を超えます。

連合国軍の一員として日本に勝利した中国は短期間で、台湾における日本の資産を手中に収めたのでした。

経済状況の悪化

台湾統治において、国民党政権は台湾の通貨を「円」から「台湾元」に変更し、中国有利の不当な交換レートを設定しました。

日本統治時代、日本に移出されていた米などの台湾物産品は低価格で大量に中国に移出されるようになり、台湾は米不足・資金不足に陥ります。

台湾の経済状況悪化に加え、国民党政権の乱暴な台湾支配に対して、台湾住民の不満は高まっていくのでした。

二・二八事件

国民党政権は、日本統治時代に酒やタバコの専売を行っていた「台湾総督府タバコ専売局」を接収し、「台湾省専売局」に改名して運営を続けました。

当時、台湾でタバコを販売することができるのは専売局のみで、国民党政権にとってこのタバコ販売は大きな財源となっていました。

そして、このタバコの密輸販売で金儲けをしていたのが、台湾統治にあたっていた「台湾省行政長官公署」の高官たちです。

そんな中、二・二八事件のきっかけとなる出来事が起こりました。

二・二八事件のきっかけ

1947年、台北市の台湾人商店街「大稲埕(だいとうてい)」で、密輸タバコを販売していた台湾人女性「林江邁(りんこうまい)」が、台湾省専売局の密売取締員6名によって、タバコを没収された上に、現金を取り上げられる出来事が起こりました。

林江邁は、タバコ密売取締員に対して現金の返却を懇願しましたが、銃で殴打され流血する事態となります。

これを見ていた台湾人の群衆は怒り、密売取締員に対して攻撃的な行動に出ました。

これに対し、密売取締員が発砲して逃走。

銃弾は、無関係の台湾人に当たり死亡してしまいます。

この事件に対して、台湾人は激怒し、タバコ専売局に抗議をするために押し掛けたことが二・二八事件のきっかけでした。

起きた二・二八事件

1947年の2月28日。

怒る台湾人の群衆は、台湾総督府タバコ専売局内に押し入り、物品や書類を燃やすなどの実力行使を行いました。

これに対し、憲兵は群衆に対して機関銃を掃射。

多くの台湾人死傷者が出る大惨事となってしまいます。

この事件に対する台湾人民の怒りは激しく、官庁や警察署を襲撃するなど国民党政権に対する暴力的な抗議に発展していきました。

事件発生後、台湾市民による処理員会が組織され、これまでの国民党政権に対して募っていた不満を解消すべく、国民党政権に対して台湾人の政治参加や、専売制度の廃止、台湾人民の安全や自由の保障などの政治改革に関する要求が出されました。

一時はそれらの要求を受けるように見せた国民党政権でしたが、国民党政権の増援部隊が台湾に到着すると、状況は一変しました。

国民党政権増援部隊の台湾全土に及ぶ、台湾人殺戮が始まったのです。

この二・二八事件で3万人近くの台湾人が命を落としました。

国民党政権は、台湾人の政治改革要求に対して、最後まで真摯に向き合うことはありませんでした。

国民党政権の厳戒令

この時期の中国内では、毛沢東率いる共産党と、蒋介石率いる国民党の間で内戦が起こっていました。

この内戦に敗れた蒋介石は、国民党軍を率いて本格的に政権の拠点を台湾に移し、台湾に国会を立て、自ら台湾(中華民国)の初代総統となります。

ちなみに、国民党政権は台湾移転後も中国の正当政府は「国民党政権」であると主張していました。

厳戒令の施行

1949年、台湾に拠点を移した国民党政権は、台湾統治にあたって戒厳令を施行しました。

国民党政権による台湾での一党独裁政治の始まりです。

この戒厳令は世界最長といわれており、1987年までの38年間続きました。

戒厳令によって、台湾は思想が統制されることとなり、新政党の結成が禁止されました。

また、台湾で暮らす人々の人権や言論の自由は無いに等しいものとなりました。

普段の生活の中に必ず国民党政権の白いヘルメットを被った憲兵が介入し、国民党政権の思想に反すると判断された人間は問答無用で連行され、厳しい尋問や拷問を受けたといいます。

戒厳令の解除

戒厳令によって長年押さえ付けられていた台湾から、戒厳令解除を求める声が上がり始めます。

そして、ついに台湾民主化・戒厳令解除へと繋がる事件が起こります。

美麗島事件

1972年12月、美麗島事件(高雄事件)が起こりました。

台湾南部にある高雄市の雑誌「美麗島(びれいとう)」が国民党政権の独裁を批判し、高雄市で世界人権デーを記念するデモ集会を呼びかけ、多くの人が集まりました。

しかし、無許可で行ったという理由で規制にかかった警察や憲兵と衝突。

流血騒ぎとなり、約200人が負傷しました。

雑誌「美麗島」を発行した黄信介や関係者は逮捕され、懲役刑に処されました。

民主進歩党(民進党)結党

1986年9月、民主主義と自由を求める活動者によって「民主進歩党(民進党)」が結党されました。

ちなみに、結成当時、国民党政権の戒厳令が敷かれていたために非公式の結党でしたが、当時の蔣経国総統の方針から黙認され、1989年に合法化されました。

解除された戒厳令

国民党政権の戒厳令に対し、台湾では抗議運動(デモ)が活発化しました。

そして1987年7月に38年間に渡って続いた、国民党政権の戒厳令は解除されました。

この戒厳令解除には、当時台湾に対して友好的だったアメリカのレーガン大統領が、台湾民主化推進に賛同していたことも大きく関係しています。

まとめ ~民主化の道を歩む台湾~

ここまで台湾の歴史を足早に紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。

オランダ統治から中国の国民党政権の統治時代までの約360年間(1624-1987)、台湾は激動の時代を歩んできました。

台湾がその激動の時代を乗り越え、民主化の道を歩み出してからまだ半世紀も経っていません。

その民主化の道を勢いを持って歩み続け、今の台湾があるのです。

 

台湾は「親日」と言われ、日本の海外旅行先としても人気です。

だから尚更に、台湾の歴史を知っておくことは大切なことだと思うのです。

最後までお読みいただき、有難うございました。

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